給水制限の歴史

給水制限記録

年度 総日数 給水制限方法 各日数 降水量
(給水制限時)
昭和47年度 35 夜間6時間断水
夜間10時間断水
15
20
2,320
昭和48年度 126 夜間8時間断水
夜間10時間断水
24時間隔日給水
31
15
80
1,775
昭和49年度 113 夜間8時間断水 (一部3日に1日)
夜間10時間断水 (一部3日に1日)
24時間隔日給水
97
7
9
2,657
昭和50年度 49 夜間8時間断水
夜間10時間断水
24
25
2,697
昭和51年度 75 夜間10時間断水 75 1,691
昭和52年度 169 夜間8時間断水(地域別、全地域)
24時間隔日給水
32
137
1,673
昭和53年度 24時間隔日給水 7 2,609
昭和54年度 なし   -  
昭和55年度 76 夜間8時間断水
夜間10時間断水
39
37
1,920
昭和56年度 259 夜間10時間断水
24時間隔日給水
隔日20時間給水
38
176
45
1,335
昭和57年度 67 夜間10時間断水
隔日20時間給水
24時間隔日給水
30
11
26
2,430
昭和58~62年度 なし   -  
昭和63年度 33 夜間8時間断水
24時間隔日給水
7
26
2,010
平成元年度 26 24時間隔日給水 26 1,824
平成2年度 なし   -  
平成3年度 64 夜間8時間断水
24時間隔日給水
44
20
1,941
平成4年度 なし   -  
平成5年度 31 夜間8時間断水 31 1,458
平成6年度~ なし   -  
 
給水制限
日数総計
1,130      

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1963年(昭和38年)の干ばつ


 沖縄県は復帰以前にも数多くの渇水を経験しているが、その中でも特に大きな渇水がこの1963年の干ばつであろう。

 この年の干ばつは、戦後数多くの干ばつに悩まされた人々にとって、忘れがたい記憶に残る70数年ぶりの大干ばつであった。この年は年明けから著しい低温のため、1~3月にかけて平年値の3~5度も低めになり、そのため、あられ・霜柱・結氷等の異常現象が現れ、また全県的に小雨の年であった。

 この年の1月から大寒波と小雨傾向が続き、梅雨期に期待されていた雨も5月で14.8mm、6月で75.2mmと極端な小雨となっていた。

 その後も小雨傾向は続き、1~12月までの総降雨量は969.6mmと平年値2,036.8mmに対し47.6%と約半分の降雨量しかなく、当時の人々がどれほどこの干ばつに悩まされたか窺い知れる。農作物の被害は甚大を極め、パインや苗代、芋、果菜類などは千害により全県下で30~70%の被害が出た。水稲田では亀裂が生じ、主要生産物のサトウキビにも被害が拡大し、国会でも取り上げられるほど、沖縄の干ばつ被害は深刻な状況になったのである。

 干ばつの被害は農作物だけにとどまらず、生活用水にもことかくようになり、久高島の働き盛りの男女が農作業に見切りをつけ、那覇、与那原方面へ出て 疎開生活を始めた。また、伊計島では、「水はキップで配給制にして1日2ガロンの水を求めて島民が列を作っている」と日照り地獄の様相を新聞等は報じている。沖縄本島においても、長期に渡る給水制限や、農作物の枯死、病害虫の異常発生及び家畜の餓死等、干ばつの被害は広がっていった。

 一方、5月6日、米軍が管理する平山、瑞慶山の二つのダムも貯水量が減り、平山ダムはすでに底をつき、命綱である瑞慶山ダム(倉敷ダム)も、あと16日間の水量を残すのみとなっていた。これら渇水対策のため、那覇市が4月15日から一部地域で時間給水を実施、5月1日から那覇市全域にわたって夜間断水を実施、コザ市(沖縄市)においても6月27日には隔日給水を実施したのである。

 5月10日と11日には、米軍による人工降雨作戦も試みられたが、期待するほどの効果は見られなかった。水事情が好転する傾向は一向になく、1日の消費量600万ガロン(約2万3千m3)で推移すれば、まもなく緊急用の水量さえ確保できないことから、キャラウェイ高等弁務官は「長期間に渡る干ばつのため、6月9日午後11時から翌日午後5時までの18時間断水を、軍施設内においても実施する」と発表し、渇水対策が講じられていった。

 6月に入っても水事情は更に悪化し、太田主席は各船会社に対し、本土からの水運搬の協力を要請するほか、本土の関係各府県には正式に給水依頼の文書を送ることになった。

 日照地獄の沖縄の現状に、日本本土から続々と「友情の水」が送られてきた。6月1日、那覇丸で鹿児島から40m3、同2日、波之上丸で250m3、同4日、富士丸から80m3、同じく沖縄丸で100m3、5日には名瀬から150m3が、9日には日石タンカーから120m3、波之上丸200m3、黒潮丸から50m3等と、連日新聞報道されたのも1963年の大干ばつであった。

 その頃、水洗トイレの水の確保に困り果てた米軍は、海水をトイレ用水として利用した。

 嘉手納町水釜、北谷町北前、浦添市勢理客の各海岸に海水を揚水するためのポンプ小屋を設置し、キャンプズケラン、牧港補給施設に各々6インチパイプを応急的に布設し、各部隊内に共同栓が設置され、各人が水缶で、あるいはタンクローリー車で海水の給水を受けて、水洗トイレに使用したのである。米軍の機動力を最大活用した、記憶に残る大渇水であった。

 12月に入り、那覇において147.9mmと、まとまった降雨があり、水事情も好転したことから、206日間に及ぶ給水制限は、12月11日をもって全面解除となった。

 

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326日の大渇水(昭和56~57年)

 復帰以降の20年間で実施された給水制限は、延べ1,099日にも及ぶが、その中でも記憶に新しい大渇水は昭和56年7月10日から昭和57年6月6日までに実施された326日間にわたる給水制限であろう。

 多くの離島からなる沖縄にとって最も大きな水資源は、5~6月の梅雨と夏から秋にかけての台風による雨で、1年間に降る雨の大半を占めていることから、この時期に少雨傾向になることは、即、水事情が逼迫することになる。

 昭和56年は、4月から少雨が続き、梅雨入りしても亜熱帯高気圧が例年より異常に発達し、このため梅雨前線の活動が不活発になったため、5~6月の梅雨期の降雨量はわずか237mmであった。これは平年値の約45%で観測史上4番目の少雨記録である。

当時の天願ダムの様子

 そのため、福地ダムと県管理3ダムの貯水量は日ごとに減少し、7月9日に、福地ダムは30,207千m3(77,5%)、瑞慶山ダムが919千m3(39.0%)、天願ダムは417千m3(35.1%)、金武ダムにいたっては45千m3(6.8%)まで落ち込み、また水の消費量は高温続きの連日とあって、その年最高の388.5千m3/日を記録したのである。

 このような状況を踏まえ、昭和56年7月10日午後8時から翌日午前6時までの夜間10時間の給水制限が実施された。

 夜間10時間給水制限を実施している間も、各河川からの取水量は減少を続け、水源状況は日々厳しさを増していった。

 そのため、沖縄渇水対策連絡協議会は7月16日から24時間隔日給水制限に踏み切ることを決定し、昭和53年4月7日以来3年3ヶ月ぶりに隔日給水制限を実施した。

 7月22日には、夜間10時間の給水制限に緩和されたものの、その後8月24日には再び隔日給水制限実施となった。

 その後水事情はさらに悪化し、昭和57年2月2日の各ダムの貯水率は、瑞慶山ダム20.2%、天願ダム21.3%及び金武ダム6.8%と3ダム合計で775.1千m3(18.4%)、福地ダムは37.7%(14,697千m3)まで低下、また沖縄気象台の予報でも、当分雨は期待できないとつれない予報のため、2月15日から給水制限をさらに強化し、隔日20時間給水を実施、水事情はますます厳しくなった。

 タンクのない家庭では、主婦がポリ容器に水をため、飲料用水の確保に追われた。大量に水を使う飲食店、病院、福祉施設でも隔日断水の強化に「商売あがったり」、「保健衛生面が心配」などと悲鳴を上げ、その混乱ぶりは想像を絶するものであった。

当時の平川ダムの様子

 一方企業局では、渇水対策の一環として、国に対して福地ダムからの緊急補給をお願いすると共に、福地川、新川川、安波川、普久川、慶佐次川、久志大 川などから、河川維持用水の一時転用による水源の確保をはじめ、金武村が戦前建設した農業用ダムで、戦後はキャンプハンセン基地に接収され遊休化している 平川ダムから、緊急かつ暫定的な水道水源として金武浄水場及び金武ダムへ導水し利用する計画で、企業局から在沖米軍海兵隊隊長あて、同ダムからの取水に伴 う協力を要請し、昭和56年10月5日付けで、取水ポンプ場の建設、ダムから金武浄水場までの水道管の布設許可が出て、総工事費40,730千円で工事に 着手したのである。

 ダムの周囲を取り囲むようにピストル、ライフル、機関銃等の実弾射撃の演習場で、その標的はすべてダム側に向けられているため、昼間の出入りは禁 止、工事の施工も午後4時から翌日午前6時までと制限され、ポンプ場の建設、ポンプの設置工事、口径φ250mmの導水管を1.8kmにわたって布設する 工事が連日真夜中に行われたのである。

 昭和56年10月27日、企業局長自ら火入れ式のスイッチを押し、取水を開始した。毎日の巡視、点検は中部浄水管理事務所が担当したが、その業務は 困難を極めた。「この車両は基地司令官の許可を得て、基地内に出入りするものである」と英文で大書された看板を巡視車両に取り付け、真夜中に山中を車で行 き来するのであるから、M.P.に尋問されることも度々であった。

 取水開始後20日たった11月16日には、3.4mあったダム水位も70cmに低下して取水不能となった。その後は間欠運転を繰り返しながら、昭和57年4月22日、総取水量107.2千m3をもってその務めを終え、昭和58年10月18日、すべての施設が撤去された。

人工降雨状況

 待てど暮らせど降らぬ雨に、昭和56年10月18日、沖縄本島上空で第1回人口降雨作戦が実施された。
県人工降雨実施本部(本部長:副知事)は、沖縄気象台及び第5航空群第5航空隊所属の対潜哨戎機P2J機の協力を得て、機上から2.6m3の散水を行ったが、期待する雨はなく空振りに終わった。

 その後も人工降雨作戦が行われたが、渇水を緩和するまでにはいたらなかったのである。

人工降雨実施状況一覧(航空機による散水方式)

  年月日 散水 概要 県営3ダム
平均降雨量(mm)
回数 時間(分) 水量(m3)
昭和56年
10月18日
27 2.65 本島北西にあった積雲が南西に移動した 5.0
昭和56年
10月20日
28 同上、福地ダムから金武ダムに向けて散水 6.4
昭和56年
10月30日
20 雲の厚さ約1,000m、福地~金武間に散水 2.5
昭和56年
10月30日
12 雲の厚さ約2,000m、名護~金武~瑞慶山間に散水 2.5
昭和56年
11月2日
7 5,300m高度で北西海岸~金武間に散水 13.2
昭和56年
11月3日
18 3,000m高度で福地ダム上空のみで散水 5.2
昭和56年
11月30日
12 3,000m高度で与那覇岳、福地ダム上空のみで散水 2.0
昭和57年
1月14日
8 150kg 5,500m高度で福地ダム上空にてドライアイス(150kg)散布 9.0
12 2.65 1,700m高度で金武ダム上空で散水
昭和57年
2月4日
28 2,800m~3,000m高度で福地ダム上空にて散水 2.0
10 昭和57年
2月10日
20 1,300m高度で奥間ビーチ上空にて散水 4.2
11 昭和57年
2月27日
16 福地の南側3,000m上空で散水 5.1

 水源状況の回復が見られないままに、給水制限の実施日は300日を越え、日数においては昭和53年に福岡市において記録された287日を抜いて最悪の状況となった。

 昭和57年6月2日から3日にかけて、雷を伴う豪雨でダム貯水量も順調に回復し、6月5日には、福地ダムが28,541千m3(73.2%)、瑞慶山ダム2,201千m3(93.4%)、天願ダム974千m3(81.8%)、金武ダム645千m3(97.8%) と回復した。また、新たに建設された安波ダム、普久川ダムの試験湛水も順調に進み、ほぼ満水の状態となっており、今後水源としての活用も期待されることから、沖縄渇水対策連絡協議会による給水制限解除の決定により、昭和57年6月7日をもって326日ぶりに、未曾有の断水地獄から解放された。

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